映画リベリオンに見る聖書の否定②


映画リベリオンに見る聖書の否定①、前回の続きです。


前の記事ではユダヤ人に多少触れましたがそれには理由があります。その前にイエス・キリストがこの世に生を受け磔刑に処されたことはアダムとイブがエデンの園で知恵の実を食べたことに始まった人間の原罪であり神への反逆であり、イエス・キリストはその人間の原罪を贖うために磔刑に処されたのだと前述しました。

このイエス・キリストの磔刑による死は、いわば全人類に対する神の救済であり、神と人類の新たな契約と見ることも出来ます。ただ神はイエス・キリストをこの世に遣わす前に一度ある民族との間で契約を結んでいます。ある民族とは他ならぬユダヤ人のことです。

ユダヤ人は元々パレスチナの地に定住していたもののある年、大規模な飢饉に遭遇しやむなくエジプトに移動し生活を営むこととなります。旧約聖書によればエジプト王ファラオはユダヤ人を奴隷として使役するようになりました。紀元前13世紀エジプトのあるユダヤ人夫婦の元で美しい男子が生まれます。この妻の名前はヨケベドといいます。

この頃ファラオはユダヤ人の反乱を恐れるあまり生まれたばかりの男児を全て殺すことを命じたが、このユダヤ人の妻は生まれた我が子をパピルスの籠に入れてナイル川に流します。この籠を川で遊んでいたファラオの娘が偶然拾い不憫に思い宮廷に連れ帰えり王家の子として育てられることになります。この赤子こそがモーセです。ヨケベドは乳母として雇われ宮廷内においてモーセを育てることになります。

やがて成人したモーセはある日、シナイ山の麓にいましたが、そこに燃える芝の中に神の使いが現われ、モーセに囁きます。「エジプトに帰りユダヤ人を救え。約束の地カナンに連れて行くのだ」

モーセはエジプトに戻りファラオに神の告げられた言葉を説明するも、聞き入れられません。モーセはこのことを神に相談すると神は10の災害をエジプトに対して下します。この10の災害は例えば1.ナイル川の水を血に変え、魚を殺し水を飲めなくする。2.疫病を蔓延させ家畜を殺す。3.大量のヒョウを降らし畑の作物を全滅させる。4.生まれたばかりの赤子は人も家畜も全て殺す。5.イナゴを大発生させ作物を食い尽くす。といったものです。

神はモーゼにこう告げます。「子羊の血を門柱に塗りなさい。私はエジプト中の初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家は過ぎ越していくだろう」 この神の言葉に忠実に従ったユダヤ人は子羊の血を門柱に塗ることでこの神がエジプト中に巻き起こした災厄から逃れることが出来ました。

大きな天候不順やイナゴの発生等はすなわち大規模な飢饉に繋がるため、これらはエジプト王ファラオを多いに苦しめユダヤ人がエジプトを出ることを許可します。モーセは200万を超えるユダヤ人を率いて神の言葉に従いカナン後を目指します。

ファラオはその後、ユダヤ人のエジプト離脱を許可したことを激しく後悔し、激しい激情に狩られます。そしてユダヤ人を全て皆殺しにすべく自ら一軍を率いてモーセに率いられたユダヤ人を追跡します。ファラオの大群に追われたモーセに率いられたユダヤ人は
前方を葦の海に阻まれ絶体絶命の危機に陥りますが、モーセが海に手を差し伸べた途端、神はモーセの声に答え海を2つに分けて道を作ります。

ユダヤ人達がその道を足早に通り終わると海はまたたく間に閉じられおってきたファラオの大群は海に沈むこととなります。その後、モーセに率いられたユダヤ人たちはシナイ山の麓にたどり着きますが、一人シナイ山の山頂に向かったモーセはそこで神から
十戒を授けられます。この十戒は以下の様なものでユダヤ人と神との間で結ばれた契約とされています。

1.わたしのほかに神があってはならない。
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。

この基本事項を遵守することでユダヤ人は神からの祝福と庇護を受けられることを意味します。この十戒はユダヤ人と神との間で結ばれた契約と思われ、すべての民族を含めた人類全体の救済を目的としたイエス・キリストの磔刑による人間の原罪を贖うこととは大きく意味が異なると思われます。


話は前後しますが、神はこのモーセに授けた十戒の前にユダヤ人との間で契約を結んでいます。それはユダヤ人の始祖とされるアブラハムの時代に遡りますが、これはアブラハムと神の間で交わされた契約となります。


それから神はアブラムにこう言われた。「あなたの国を出てあなたの親族と父の家とを離れて、私が示す国へ行きなさい。そうすれば私は、あなたから大いなる国民を作りあなたを祝福しあなたの名を大いなるものにする。あなたは祝福となりなさい。そしてわたしはあなたを祝福するものたちを祝福し、あなたの飢えに災いを呼び求めるものをのろう。地上のすべての家族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう。

創世記12・1-3

ここでいうわたしが示す国とはカナンのことです。現在のパレスチナになりますが、ユダヤ人は神との契約によりパレスチナの土地を所有する正当な権利を有していると見ることが可能です。現在の国際法的には異なる解釈となりますが。

ユダヤ人はアブラハムとモーセの時代に二回に渡り神と契約を結び祝福を受けています。まさに神から選ばれた民族であり全ての民族に対して優越する選民思想をユダヤ人が持つことになるのは止む終えないと思います。何故ならイエス・キリストをこの世に遣わす前に神がユダヤ人以外の特定の民族とこのような契約を交わしたことはないからです。ただこの神との間で交わした契約はその後のユダヤ人にとって暗い影を落とすこととなります。

このシナイ山における十戒の話には続きがあり、次のような端末となっています。シナイ山において神から十戒を授けられたモーセは一度麓におりた後、十戒の内容を民衆に聞かせ忠実に守るように誓わせます。モーセはその後再度山頂に戻り40日間に渡り神から詳細な指示を受け掟を記した2枚の石板を授かります。

その後、下山したモーセが見たものは民衆が黄金で作った子牛を神として礼拝している光景でした。激怒したモーセは偶像礼拝に加担していた民衆の処刑を命じます。その数は3000人に及んだとされています。


この話を聞いてどのように感じられますでしょうか。神との約束を破り偶像を作り礼拝していた民衆が悪い?神との約束を反故にしたのだから殺されてもしょうがない?神とモーセから見ればたしかにそうなるでしょう。ただ偶像を礼拝していた民衆には次のような言い分があるようです。

聖書の出エジプト記によれば、モーセがシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされていますが、麓に残されたユダヤ人の民衆は時間の経過と共モーセが中々帰らないことに不安にかられついには忍耐力を失い、最後にはモーセは死んだと思うようになります。

このときサタンが現れ、雲の上に立つモーセの幻影をイスラエルの民に見せたとしています。不安が最高潮に達したユダヤ人の民衆はモーセの兄であるアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願します。アロンは民衆の声に答え、民衆から貴金属の提出を要請します。そのような経緯で鋳造の金の子牛が完成しました。

鋳造の金の子牛を民衆が作り礼拝していることを知った神は、一刻も早く下山するようモーセに命じます。モーセが下山して麓に戻ったところ、民衆は宴に興じながら金の子牛を礼拝しています。怒りの激情に駆られたモーセは十戒の石版を破壊し、金の子牛を燃やしてしまいます。そしてモーセはレビ族の者を集め、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じます。


エジプトを脱した際のユダヤ人の民衆の数はおおよそ200万人。そのなかで偶像礼拝に加担していたのは僅かに3000人ですので全体からすれば0.0015%と僅かな人数です。私見を申せば人間というのは非常に精神的にも肉体的にも脆い生き物です。常に飢えと戦い医療が発達していないため流行り病が蔓延すれば満足な治療もできずに簡単に死に至ります。現代よりも遥かに死と隣り合わせな時代です。

モーセという強力なリーダーの存在がシナイ山の山頂に登り40日間という長きに渡り不在であり、なんの音沙汰もありません。一部の民衆が不安にかられモーセが死んだと判断しても無理はありません。そもそもの問題ですが、神の声を聞くことが出来、かつ対話ができるのはモーセ等の選ばれた預言者だけであり、その他大勢の民衆には神の声を聞くことはおろか対話をすることさえ出来ません。

神の声が全ての民衆に対して聞こえるのなら民衆も神の存在と偉大さを嫌でも感じることができるでしょう。ただ現実にはそうではありません。神の声を聞くことも出来ず、神との対話の内容もモーセのような預言者を通してしか知る術はないのです。いわば神はモーセのような預言者を通してしか対話ができず、民衆はモーセを通してしか神と対話をすることは出来ないわけです。

いわばモーセのような預言者の存在というのは神の声を聞くことが出来ない民衆にとっては神と対話をするための媒介といえます。そのモーセがシナイ山の山頂に登ってから40日間という長きに渡り音沙汰がない。このときサタンが現れ、雲の上に立つモーセの幻影をイスラエルの民に見せたとされています。

このことが民衆の不安を最高潮に高めモーセが死んだと判断して、新たなる心の拠り所を金の子牛を作りそれに求めたのは無理からぬ事です。当時一神教の存在のほうが希少であり、偶像礼拝はむしろ一般的な信仰の対象であることを考慮すればなおさらです。

その結果、新たな心の拠り所を求めた一部の民衆が金の子牛を作り礼拝するようになったことは誰にも攻める権利はないはずです。この出来事からも神の寛容さを感じることは出来ず、人間の一つの過ちも許さない神の不寛容さだけが目立ちます。


その後、モーセとユダヤ人の民衆は神の言葉に従い約束の地カナンを目指します。カナンの地、現在のパレスチナですがそこにはペリシテ人がすでに定住しており、ペリシテ人は強力な軍隊を要し強力な民族でした。モーセはこのときすでに高齢であり自らの後継者にヨシュアを指名します。

このヨシュアは神との対話ができる預言者であり、なおかつ優れた軍事的指導者でも有りました。ペリシテ人の軍隊は非常に強力であり正攻法では敵わないと判断したヨシュアはゲリラ戦を展開し徐々にペリシテ人を追い詰めていきます。やがてカナンを部分的に占領するまでになり、この神から約束されたカナンの地に古代イスラエル王国を建国する礎を築きます。



ここで少し話題を変えたいと思います。そもそもの問題として神は存在するのでしょうか。そして聖書に書かれていることは果たして正しいのでしょうか。このことについて少々触れたいと思います。管理人は特定の宗教を信仰しているわけではありません。便宜上、仏教徒ということになるようですが、別に仏教に思い入れはないし別段興味もありません。ですが恐らくキリスト教世界でいう唯一神ヤハウェは存在するのではないかと最近は思うようになりました。

ある程度感受性の豊かな人間であればこの世界には人知を超越したなんらかの存在があることを感じると思います。そう考えなければ説明の付かない出来事が世界中には溢れているからです。現在の科学ですら証明の出来ない説明がつかない事例というのは多々あります。

神の存在を証明するのには複雑な数式は必要無いと思います。一例をあげるとそれは地球上の多種多様な生物に見ることが出来ます。地球上にはおおよそ800万を超える生物がいると推定されていますが、現在分かっているのは100万種ほどだそうです。膨大な数の生物が地球上には存在することになります。

地球が生まれたのは今から46億年前とされていますが、ダーウィンの進化論によれば、おそらく最初に単純で原始的な生命が生まれ、より複雑な生命へと変化することが繰り返されたのだろうと推察しています。また科学者の中には、宇宙空間には生命の種のようなものが広がっており、生命の誕生の場所は地球上ではなかったとするパンスペルミア説もあるようですが、ダーウィンの説に比べればパンスペルミア説のほうがまだ説得力が有ります。

人間だけでも多種多様な顔のデザインがあり、こと人間以外の生物に至っては現在分かっているだけでも100万という膨大な数だけ異なるデザインが有ります。これだけの多種多様なデザインを見る限り、これらがまったくの無から原始的な生命が生まれより複雑な生命への変化が繰り返されてきて現在に至った?ましてや人間は猿から進化した?有りえません。荒唐無稽というしかないです。

この地球上に存在している膨大な生物の数だけ多様なデザインが有り、細部に至るまで、まるで高名な芸術家によって丁寧に作り込まれている様を見る限り、これはもう誰かがデザインしているとしか考えられません。それが神によるものなのかはわかりませんが、そう考えたほうが、ダーウィンの進化論よりは遥かに自然であり説得力が有ります。。



そこで神は深い眠りを人に望ませ、彼が眠っている間に、そのあばら骨の一つを取り、次いでそこの肉をふさがれた。それから神は人から取ったあばら骨を女に造り上げ、それを人のところに連れてこられた。すると人は言った。「これこそついに私の骨の骨、私の肉の肉。これは女と呼ばせよう。男から取られたのだから。

創世記2・21ー23

これはエデンの園においてアダムの妻であるイブが創造された時場面の描写になります。初めて聖書のこの一節を読んだとき、あまりにも荒唐無稽でリアリティがなく、にわかには信じることは出来ませんでした。聖書にはこのような記述が多いため、そのことも聖書を長い間信用することが出来ない原因の一因ともなりました。

ただ、最近思うのは、聖書に書かれているこのような記述というのは一語一句そのまま額面通りに読み取るのではなく、あくまでも概念として受け止めるべきものだということを理解しました。すなわち、イブの創造にはアダムのあばら骨を一つ取り、そこから神がイブを作ったと額面通りに捉えるのではなく、例えばすでに神がデザインし創造していた猿をベースにしてDNA操作を加え人間を作ったのだと。

その人間の第一号がアダムなのではないかと今では考えています。そう考えたほうが遥かに自然ですし、話にも整合性を取ることができる気がします。もちろんDNA操作というのはあくまでも比喩ですので、人間を作成したプロセスは異なると思われますが、そのようなことだと理解しています。荒唐無稽な話に感じるかもしれませんが、少なくとも人間が猿から進化したとされる進化論よりは、はるかに話の整合性を取ることが出来ます。

人知を超越した何らかの存在があることは理解できる。それが神なのか悪魔なのかはわからない。地球上に存在する多種多様な生物も、無から生まれたことは考えにくく、その繊細かつ多様なデザインは誰かが一つ一つ丁寧にデザインしているとしか思えません。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でいうところの神は唯一神であるヤハウェになります。イスラム教ではアッラー、アラビア語でアッラーフと呼ぶようですが、呼び方が異なるだけで、すべて同じ神を信仰していることに変わりはありません。アブラハムが生まれたのは今からおおよそ4000年前、イエス・キリストが生まれたのはおおよそ2000年前、ムハンマドが生まれたのは紀元570年ごろ、今から1400年前です。

人間の一生を長くても100年と考えればイエスの生まれたのがおよそ2000年前、アブラハムが生まれたのはおよそ4000年前になりますので、はるか昔の出来事であり永遠のような時間に感じることも出来ますが、逆に言えばフランス革命が起こったのはおよそ200年弱前に過ぎません。そのことを考えればイエスの生まれたのがおよそ2000年前のこととはいえ、全く現実味を帯びないわけではなく、むしろ僅か2000年前の出来事に過ぎず、最近の出来事と捉えることも可能といえば可能です。

それだけの長い間、世界中の人々が唱える言葉は異なっても実質的に同じ唯一神を信仰し神を愛して止まないということには、神を信じるだけの一定の合理性があることに他なりません。


ですが、このユダヤ教、キリスト教、イスラムの教の一神教の存在は世界中で争いの火蓋となっており、長い間、血で血を洗う戦争を引き起こす原因となってきました。十字軍遠征はその最たるものですが、キリスト教世界から見れば失地回復運動といえますが、イスラム教世界からみればキリストの名のもとに野蛮人が西から押し寄せてきただけの話です。

以下の内容は十字軍が組織された経緯です。

イスラム王朝セルジューク朝が東ローマを脅かし東ローマの首都であるコンスタンティノープルから目と鼻の先であるアナトリア半島を奪ったことに端を発します。これに危機感を募らせた東ローマ帝国皇帝アレクシオス一世は時のローマ教皇ウルバヌス二世に救援を要請します。ウルバヌス二世は1095年フランス中部のクレルモンで公会議を招集し次のような演説を行います。

 「今こそ我々は立ち上がらねばならぬ。等しく神の御加護を受ける兄弟同士で相争うときではない。即座に休戦し、共に手を携え、かの地の血塗られし異教徒どもから聖地を取り戻すべく戦わねばならぬのだ。神の御心は我らと共にある。立ち上がれ、神の勇者たちよ」

それまでヨーロッパでは同じキリスト教圏にも関わらず戦争が絶えませんでしたが、このウルバヌス二世の演説に多くの人々が酔いしれ熱狂とともに支持されることとなります。キリスト教社会に初めて連帯感が生まれることとなり、神の正義の名のもとに翌年にはヨーロッパの連合軍からなる十字軍が組織されエルサレムを目指すことになります。これによりキリスト教圏とイスラム教圏との間における宗教戦争の火蓋が切って落とされます。

一神教を巡る対立や戦争は何もキリスト教圏とイスラム教圏だけの話ではなく、それは同じキリスト教圏でも発生しています。有名なのはキリスト教内におけるルターの宗教改革に端を発するカトリックとプロテスタントでの戦争です。

これは1515年に教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための莫大な費用の捻出にあたり贖宥状を販売したことに起因しています。この贖宥状はローマ教会の影響下のある地域で大々的に販売されていました。しかし本来であれば罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに、金銭による贖宥状の販売のみによって罪の償いができるという考え方には批判が強く出ることとなり、この考え方にもっとも否定的だったのはマルティン・ルターでした。

1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけます。これが、一般に宗教改革の始まりとされ、この贖宥状批判は大きな反響を呼ぶこととなります。この批判はまたたくまにヨーロッパ各地に拡大し、ローマ教皇に強い反感を抱いていた周辺の諸侯の支持を得ることとなります。

これには教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満が元々大きかったこともありますが、このサン・ピエトロ大聖堂の建築と建築費用を捻出するための贖宥状の販売という行為に、それまでのローマ・カトリック教会への不満が爆発する格好となり、カトリックとプロテスタントへの分離へと発展することとなり、ヨーロッパを二分してローマ・カトリック教会を支持する国とプロテスタントを支持する国に別れ激しく対立し熾烈を極める戦争へ発展します。


このように一神教の存在は特にキリスト教とイスラム教間では戦争の元となり、キリスト教内部でも考え方の違いにより争いや戦争の火種となっています。現在でも紛争や戦争は世界各地で続いておりますが、戦争の原因は主に次の3つに大別することができます。それは経済、民族、宗教です。経済的な問題であれば理性的な解決を図ることは十分に可能です。ですが異なる民族同士の争い、異なる宗教間における対立というのは根が深く、とかく感情的となり理性的な解決を図ることはもはや困難です。

聖書の記述が全てにおいて正しいのであれば、現在の民族問題は聖書の次の一節に見出すことが出来ます。



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バベルの塔

さて、全地は一つの言語、一式の言葉のままであった。そして、東に向かって旅をしているうちに人々はやがてシナルの地に谷あいの平原を見つけて、そこに住むようになった。そして彼らは各々互いにこう言い出した。「さあ、れんがを造り、焼いてそれを焼き固めよう」。それで、彼らにとってれんがが石の代わりとなり、歴青がモルタルの代わりとなった。そうして彼らは言った。「さあ、我々のために都市を、そして塔を建て、その頂きを天に届かせよう。

そして、大いに我々の名を掲げて地の全面に散らさえることのないようにしよう」。それから神は人の子らの建てた都市と塔とを見るために下ってこられた。その後神は言われた。「見よ、彼らは一つの民で、彼らのすべてにとって言語もただ一つである。そして、このようなことを彼らは行い始めるのだ。今や彼らが行おうとすることでそのなし得ないものはないではないか。

さあ、私たちは下っていって、あそこであそこで彼らのの言語を混乱させ、互いの言語を聞き分けられないようにしよう」。こうして神は彼らをそこから地の全面に散らし、彼らはその都市を建てることから次第に離れていった。それゆえにそこの名はバベルと呼ばれた。そこにおいて神は全地の言語を混乱させたらかであり、神は彼らをそこから地の全面に散らされた。

創世記11・1ー9


このバベルの塔の建設にまつわるエピソードからは次のことを読み取ることが出来ます。バベルの塔を建設した時点において、世界中の人間は共通する一つの言語を用いていることから民族も現在のように別れておらず単一民族であったと思われます。バベルの塔の高さがどの程度のものなのかの記述は創世記にはなため、正確なことは分かりません。

ですが、このバベルの塔の建設光景を見た神が激怒したことから、相当程度の高さがあり、規模であることを推測することが出来ます。いずれにせよ、バベルの塔の建設は神の逆鱗にふれ元々共通する一つの言語を使用していた人類は、世界中に散り散りにされ「彼らの言語を混乱させ、互いの言語を聞き分けられないようにしよう」。という記述からこのときに多種多様な民族に別れ、民族ごとに異なる言語を使用するようになったと推測されます。

このバベルの塔建設時の人類はバベルの塔を建設するだけの少なくとも高い土木技術を有していたことが読み取れますが、それと同時に単一民族であり共通する一つの言語を話していたことから、民族間の争いや戦争もなく宗教間の戦争もなく平和に過ごしていたと思われます。

逆に言えば、このバベルの塔建設にあたり現在のように民族が別れ民族ごとに異なる言語を使用することになりましたが、聖書の記述が正しいのであれば、現在世界中で起こっている民族紛争の根本的な原因は神により引き起こされたことになります。


前述したルターの宗教改革、サン・ピエトロ大聖堂の建設にあたり贖宥状の販売に端を発したローマ教会の分裂についてですが、たしかに罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに、金銭による贖宥状の販売のみによって罪の償いができるという行為は、クリスチャンでもない一般人である管理人から見ても納得ができず理解に苦しみます。信仰の厚いクリスチャンであればなおのこと許せる行為ではなく、ローマ教会の堕落と不信から当時の民衆の反発は相当に強かったと推測します。

ただ、当時のローマ教会を別に擁護するわけではありませんが、そもそもの話、神と対話ができる行為というのは預言者といった一握りの限られた人間にしか行うことは出来ません。ヨーロッパにおけるキリスト教世界における最高の権威であるローマ教皇ですら、できるわけではないはずです。

そして預言者はすべての時代において常に存在したわけでもありません。人間というのは権力を持てば行使したくなるものです。権力を持ち、そこに莫大な金が流れるのであれば、その既得権益を守りたいと考えるのは至極当然の発想といえます。また根本的な問題ですが、聖書の記述というのは非常に抽象的です。小説のように一語一句詳細にその時の模様が描写されているわけでもありません。聖書の記述というのは現代における法律に似たものを感じます。

現在の法律を引き合いに出すと、例えば日本国憲法9条ですが全文は次のようになっています。


憲法9条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、
  武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。


この第1項では国際紛争を解決する手段としての武力の行使である戦争を禁止しています。第2項では第1項の目的のために陸海空軍の保有を禁止しています。

この憲法9条は非常に簡潔に書かれておりますが、そのために憲法学者の中でも論争の種となっています。例えば集団的自衛権の問題です。集団的自衛権とはある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利です。

この集団的自衛権が憲法9条には可能であるとも、出来ないとも書いてありません。書いていないのだから集団的自衛権は行使できないと見て取ることも出来ますが、主権国家に対し国際法で認められた権利であるから、書いていなくても当然認められると判断するべきだという考え方もできます。

いずれにせよ現在における法律ですらこの有様です。正確に記述がない以上、様々な憶測を呼び解釈が可能になることは避けられません。ただ法律はそこに記述がないのであれば法改正して集団的自衛権を認める、認めないを記述し明文化すればよいだけのため、大した問題ではありません。

ただ聖書の場合は話が違ってきます。聖書の記述が抽象的であり一語一句書かれた詳細な描写がない以上、神との対話ができる預言者が常にいないため、神に対して預言者を通して聖書の内容についてこの部分はどのように解釈をすればよいか直接聞くことも出来ません。

では、どうすればよいか?聖書の記述が抽象的であり、詳細な描写もなく、断片的な情報しかない場面は多々あります。書いて有ることに対し様々な読みとり方ができる以上、聖書の記述にない部分も含め残された人間が想像で埋めるしかありません。その結果、同じキリスト教でも解釈の違いから様々な宗派に別れることとなります。

この問題は世界的な聖書研究の権威が、どのように聖書を解釈するかに別段意味はありません。仮にそのような人間がこの記述はこのように解釈すると言っても、そうは思わない、私はこのように解釈するということが必然的に発生します。またその解釈が正しい保証は何処にもありません。

この記事に書いているのは、あくまでも管理人の私見にすぎません。そうは思わないという人も、もちろんいることと思います。ただ聖書には詳細な描写がなく、それ以上は書いていない箇所が散見されます。ここに書いているのは私見に過ぎませんが、あなたがどのように思っても、それもあなたの私見にすぎませんよね?逆にどこか聖書に記述があるんですか?聖書に書いていない箇所について論じるというのはそれはその方の私見であり、想像に過ぎません。


話は戻りますが、それは時にルターの宗教改革に見るようにカトリックとプロテスタント異なる宗派、異なる聖書の解釈の違いにより言い争いになり、やがてそれはヨーロッパを二分する熾烈な戦争へと発展します。

現代でもこの世界では紛争や戦争が未だに絶えず、民族間での衝突も地域によっては耐えることはありません。宗教間による対立や戦争は現代に至り、テクノロジーの発達により生活が豊かになり非常に満たされている人間が増えたことにより人々の信仰心が希薄になるに連れて収束しつつあります。中東を含め世界中ではテロが後を絶ちませんが、少なくともキリスト教対イスラム教の図式で世界規模の戦争に繋がることは避けることが出来ています。


これら世界中で現在でも争いが起こっている原因は全て人間が悪く、人間だけの問題なのでしょうか?管理人はそうは思いません。神の中でも明確に優先順位が有ります。人間の幸福や戦争のない世界というものもあるのでしょうが、残念ながら神の中ではそれらは二の次、三の次です。神が人間に求める優先順位の第一位は自らへの信仰にほかなりません。

それはバベルの塔の出来事からも明らかです。当時繁栄を極めていた人類はバベルの塔を建てるだけの高度な土木技術を持ち、恐らく単一民族で共通の言語を使用していたことから少なくとも民族紛争の問題は有りえません。この当時は宗教による対立もなかったものと思われます。

人類はバベルの塔建設当時、戦争のない世界で平和を謳歌していたものと思いますが、それを破壊したのは人間ではなく他ならぬ神です。現在の民族間、宗教間の対立も突き詰めればバベルの塔の出来事に見ることが出来ます。繰り返しますが、現在の人間の争いの原因は人間だけの問題ですか?

最後の審判の後にイエス・キリストが再臨し神の国を築く。そこでは人々が飢えもなく病気もなく争いもなく戦争もない安息に満ちた世界を享受することができる。これだけ聞くと、まさに理想郷と映りますが、残念ながらそうはなりそうもありませんクリスチャンは今の人間の性質のままに神の国に行くことができると思っているようですが、それは誰が見ても無理です。

人間が今の性質のままイエス・キリストの統べる神の国に行けたとしても、人間が今の性質のまま強い感情をもったままであれば、神の国でも現在と変わらず同じ争いが引き起こされることは明らかです。イエスが神からいかに優れた叡智を授けられたとしても人間の性質がそのままでは統治することは出来ません。

だとしたら神がすることは一つです。それは現在の人間の性質をエデンの園にいたアダムとイブの時代の性質に戻すことです。すなわち感情が希薄で知性も極端に制限した状態にすることです。最低限神と対話はできる程度の知性はあるが、当然このような存在からは高度なテクノロジーを生み出すことは出来ず芸術作品はおろか娯楽も生まれることはありません。


前述したように映画リベリオンの舞台である都市国家リブリアではテトラグラマトン党の党首ファーザーが君臨し二度と戦争が起こらないように感情を持つことを禁止されています。そのために人々は定期的に感情抑制薬であるプロジアムを投与することを義務付けられています。

またリブリアでは音楽や文学書籍、絵画や映像など、心を揺り動かす感情的なコンテンツは全てEC-10と定義され禁止されています。党の方針に逆らい、薬の服用を拒み「EC-10」を所有している人間は感情違反者として、特殊捜査官クラリックが摘発、処刑されてます。

神の国はまさに映画リベリオンの舞台であるリブリア同様に無機質な世界になるものと想像します。飢えもなく病気もなく争いもなく戦争がなければ、それで満足ですか?言葉は悪いですが、ただ飯を食いクソをして寝るだけの生活。食事は自生している木の実などを生で食べるだけ、芸術作品はおろか映画はおろか、音楽、漫画、小説などの娯楽を楽しむことも出来ません。

仮に戦争がなくても、ただ生きるだけの猿同然の生活を続けて何が楽しいというのでしょうか。言葉は悪いですが、このような世界は映画猿の惑星以下です。

正直言って神のやることは全てにおいて裏目、裏目にでているし、争いの原因にしかなっていません。人類もテクノロジーの発達とともに生活は豊かであり、便利になりました。飽食の時代であり、食べることに事欠くことは少なくとも先進国では有りえません。一般人でも中世の貧乏貴族よりはるかに食事は豪勢であり、時折税金が高いと嘆くことはあっても、そこそこ満ち足りた生活を送っていると思います。

それ以前の人類は常に飢えと戦い大きな天候不順は農作物の不振を招きすなわち飢饉となり、即死に繋がります。疫病が蔓延すればろくな治療を受けることも出来ないため簡単に死ぬことになります。絶対王政下では民衆には兵役はないので戦争に行くことはないものの、貧乏な人間は傭兵となって食っていくしか無いので、結局は戦争に駆り出されます。紛争地では家を焼かれ、財産は強奪され敵兵士がなだれ込めば、女性は強姦の憂き目に会います。

ろくな世界ではありません。このような状況下ではそれこそ民衆は神にでも祈っていなければやってられないと思います。


現在のこの世界も今は平和を享受していたとしても戦争のリスクと隣り合わせであり、それは世界規模の核戦争に発展することも考えられます。二度の世界大戦は偶発的に引き起こされ世界規模の戦争に発展しています。今後核戦争に発展するのかは誰にもわかりません。

仮に世界規模の核戦争はなくても、今後人類が直面する人口の爆発的な増加による食糧や水、石油や天然ガスといった資源の慢性的な不足、環境汚染。これらを現在のイデオロギーの元で解決を図ることは恐らく難しいというか無理だと思います。これらの問題は資源の豊かな国から奪って解決を図る国が出てくるのは避けられず、今後ますます戦争のリスクは高まることに繋がります。世界が平和になることより、世界が不安定となる要因が今後ましていくものと思います。

ただ、そうはいっても、個人的には仮に戦争がない社会だとしても、映画リベリオンの舞台であるリブリアのような世界で生きたいとは思わないしアダムとイブのようにエデンの園のような場所で、芸術を楽しむことはおろか娯楽もなく、ただ飯を食いクソをして寝るだけの生活を送ることになるのも勘弁してほしいです。

現在の人間社会は様々な問題を抱えているし、その混乱は恐らく人類が滅亡するまで解決を図ることも出来ないとは思います。細かい不満は色々とあるし、戦争のリスクと常に隣り合わせの状況だとしても個人的には今の社会のままで良いと思います。

映画リベリオンのような世界、エデンの園のような世界、このような芸術作品も楽しめず娯楽すら無い。このような場所で一生を送るなど刑務所と変わりません。だったら今のままで良いです。



最後に。

ユダヤ人の不幸は神に見初められ神と契約したことにあるというしかないです。神が人類の救済のために遣わしたイエスを実質的に殺したも同然であることがユダヤ人の罪とされていますが、その一言で済ませるのは簡単です。

現在に生きる人間は歴史を紐解くことで客観的に見て何が問題なのか原因を理解することが簡単に出来ます。ただ忘れてはいけないのは後世の人間はまさに神の如き目を持っていることです。イエスがこの世に生を受け布教活動を初めた時点で、イエスが神から人類の救済を目的として遣わされた存在であることを理解しているものは、恐らく何処にもいなかったと思います。

そのことが明確に分かるまでには断片的な聖書の記述を研究し情報を精査するという膨大な時間と労力を要しています。要はイエスがそのような存在であることが分かったのは、あくまでも聖書の研究が進んだ上での結果論に過ぎません。当時のユダヤ人に対しそのことをリアルタイムで理解しろというのは、それこそ酷というしかないです。

そのことがユダヤ人の罪であり、その後2000年の長きに渡り迫害を受け続けることになる原因の一因だとしたら、それこそ残酷の極みです。聖書の研究の進んだ現在に生きる人間がユダヤ人の罪を論じるのは簡単です。結果だけ見ればそうなります。ただそれはユダヤ人にとってはその後の彼らの過酷極まる経過を知れば知るほどに不憫というしかないです。

仮に古代日本において仮に日本人が神に見初められ日本に預言者が現われ神と契約していたら?結果的にユダヤ人同様に世界中で迫害を受ける苦難の歴史が待っていたと思われます。そのようなことにならなくてよかったと。つくづく日本人が神に見初められずによかったと思うしか無いです。ユダヤ人の歴史を読むと、ただただ恐ろしく寒気がします。



神はたしかに人類の創造主かもしれません。そのように考えたほうが進化論を信じるよりも話の整合性が取れます。聖書の記述も一語一句そのまま受け取るのではなく概念として考えれば恐らくは正しいのでしょう。ただ神は慈悲深く慈愛に満ちた存在とは到底思えません。人間の犯した一度の罪を許容することもなく、人類の原罪として断罪しています。ぶっちゃけて言えば、人間の始祖が禁断の果実を食べたとか、姦淫したとか、どうでも良いし、そんなことを後世に生きる人間に言われても、知らんがなとしか感想を持ちません。

バベルの塔の出来事を見る限り、現在における民族問題はここに端を発しています。現在における宗教問題も同様に考えます。神のやることなすこと、すべて裏目裏目に出ており残念ながら現在の人類の混乱は神によって引き起こされたとしか思えません。神は創造主かもしれませんが、全知全能の存在とは到底思えません。一時の激情に駆られ人類を罰する様は人間の女性のヒステリーとなんら変わりません。

神が人間に対して求めている優先順位の第一位は人類の平和や幸福よりも自らの信仰であることは間違いなく、神のこれ以上の人類に対する干渉はさらなる人類の混乱を招くだと考えます。よってこれ以上の干渉は不要というしかないです。




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