映画リベリオンに見る聖書の否定①


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映画リベリオンというのは2002年に公開された映画ですが、当時はろくに宣伝もされず、知名度の低さから評判も芳しくはなかったようですが、その後口コミによりその評価が高まりそのガンアクションの秀逸さから一部に熱狂的なファンを持ち今でも非常に愛されている作品です。

管理人もこの作品を初めて見て以来ひと目見てそのガンアクションの秀逸さと文句なしの格好良さにファンとなった口でして、数あるガンアクション映画の中でも最も好きな作品の一つです。まずはこの映画の感想を簡単に書きたいと思います。


あらすじwikiより

第三次世界大戦後に出現した都市国家リブリア。そこは、テトラグラマトン党の党首ファーザーが君臨し、二度と戦争が起らないように感情を持つことを禁じられた社会だった。

リブリアでは音楽や文学書籍、絵画や映像など、心を揺り動かす「感情的なコンテンツ」は全て「EC-10」として禁止され、人々は「イクイリブリウム」という政府機関が生産・配給する感情抑制薬であるプロジアムの服用を義務付けられていた。党の方針に逆らい、薬の服用を拒んで「EC-10」を所有している人間は「感情違反者」として、「ガン=カタ」と呼ばれる戦闘術を極めた特殊捜査官「グラマトン・クラリック」が摘発・処刑していた。

中でも有数の実力者である、第1級クラリックのジョン・プレストンは、妻が感情違反で処刑された後、息子のロビー、娘のリサと3人で暮らしているが、ロビーはクラリック候補生であり、プレストンにとっては自宅さえも監視しあう空間だった。

プレストンは、同僚のパートリッジが、「違反者」だったことを知り、彼を射殺するが、その一件から彼の心は揺らぎ始める。そんな中、カプセルを誤って割ってしまった彼は、プロジアムを服用しないまま、新たな同僚ブラントとともに仕事に出ることになった。彼は、そこで逮捕された「違反者」の女性であるメアリー・オブライエンの尋問中、逆に動揺させられてしまう。

彼女の姿にプレストンは、かつて感情に関する罪で処刑された妻を思い出し始めた。そして鎮圧に出動した廃墟で、反乱者によって収集されていた品々や音楽に触れ、さらに朝焼けの摩天楼を見たことから感情を呼び覚ましてしまった彼は、プロジアムの服用を積極的に止め、社会に対する疑念を深めていく・・・



本作品にはガン=カタという、二挺拳銃を用いる架空の戦闘術が登場しますが、これは東洋武術と科学的な発想が融合しているという設定ですが、従来のガンアクションに見られなかったまるでカンフーのような武術とガンアクションの融合により、今までになかった映像美を獲得しています。

このリベリオンという映画の代名詞ともなっているガン=カタですが、とにかく格好良い。自動小銃で完全武装した兵士の集団をガン=カタを駆使してバッタバッタとまさに瞬殺していきますが、従来のガンアクションというのは遮蔽物に隠れてチマチマと敵を倒していくものが大半です。

これ自体は敵の集団と正面切って撃ち合うとか、それこそ即座に銃弾の雨を食らい蜂の巣になってしまうので、当然といえば当然の演出ですが、このリベリオンは一味違います。クンフーばりの格闘とガンアクションの組み合わせにより、自動小銃で武装した敵の集団との距離がたとえゼロ距離で囲まれていても、このガン=カタを用いることで敵からの銃撃を予測して回避することが可能であり、独特の体術により近接戦闘と銃撃の組み合わせで敵を倒していく様はまさに戦闘マシーンそのものです。

主演のジョン・プレストン役はダークナイトでおなじみのクリスチャン・ベールですが当時は28歳であり、その端正なルックスからファンも多いことと思われます。役柄からより作品の雰囲気に合うように無機質なイメージを高めるためかとにかく無駄な贅肉をとことん削ぎ落とし非常に引き締まった顔立ちと肉体に映画に合わせて仕上げています。

映画自体は低予算と伺っていますが最初の同僚であるパートリッジ役は007 ゴールデンアイやロードオブザリングでおなじみのショーン・ビーン。メアリー・オブライエン役にはレッド・ドラゴンでおなじみのエミリー・ワトソン。副総裁デュポン役にはブレイブハートでおなじみのアンガス・マクファーデンを起用するなどキャスト陣も案外堅実に固めています。

主演であるクリスチャン・ベールの演技力の程については賛否が別れるところだと思われますが、個人的にはこのリベリオンの舞台であるリブリアという感情の抑制された無機質な世界で特殊捜査官クラリックという役柄という意味で言えばクリスチャン・ベールの演技は作風には非常にマッチしていたと感じます。

このリベリオンという映画ですが、ストーリー自体はありふれたものであり、特筆すべき特徴はたしかにありません。この映画はガン=カタの存在無くしては語ることが出来ず、それ以外の要素は半ば蛇足に過ぎません。ただ主演のクリスチャン・ベールを始めとしてキャスト陣を堅実に固めていることから、ガン=カタというガンアクションを除いても映画としての仕上がりは案外悪くはないです。

久しぶりにDVDで見てみましたが、なんど見てもこのリベリオンという映画は楽しめますね。クリスチャン・ベール格好良い!ガン=カタ最高!!!ガン=カタによる映像美を楽しみつつ、小難しいことを考えずにお馬鹿映画として楽しんで見るのが正解かもしれませんね。

映画リベリオンはDVDはすでに製造を終了しているようで中古でしか入手はできませんがBDとして現在販売しているようです。DVDでも画面サイズは1.78:1でフルHDのモニターで見てもそこまで画質的な不満はありません。まだこの映画をご覧になられていない方はAMAZONで普通に販売していますし、レンタルDVDでも良いと思いますが借りてみてご覧になられてはいかがでしょうか。




ここまでが、この映画の当たり障りない感想になりますが、次に表題である映画リベリオンに見る聖書の否定に移りたいと思います。必然的に聖書のくだりにも触れる必要があり興味のない方にとっては長いだけでつまらない内容になるかもしれません。多少なりとも興味のある方はお付き合いいただければと思います。


まず最初に、この記事をご覧になられている方で聖書をお読みになったことはありますでしょうか?最初に断っておきますが管理人は別にキリスト教に信仰の厚いクリスチャンというわけではありません。初めて聖書を読んだのはおそらく30代の頃かと思いますが、聖書に興味が出たのは別にキリスト教に目覚めたとかそういうわけではありません。理由は後述します。

管理人は歴史が好きなのですが、特に中世のヨーロッパ史が好きで小さい頃から関連書籍を好んで読んでいました。それらの歴史書を読むうちにある一つのテーマについて興味が湧いてきました。

それはユダヤ人の存在です。ユダヤ人の虐殺というのは第二次大戦時にヒトラー政権下のナチス・ドイツが占領下のユダヤ人を強制連行し国家ぐるみで組織的かつ大規模な虐殺を行い、失われたユダヤ人の総数は実に600万人に達したといいます。

特にアウシュビッツ強制収容所の存在は非常に有名ですが、その人種差別的な絶滅政策ホロコーストにより、罪のないユダヤ人がただユダヤ人であるというだけで強制連行され隔離され満足な食事も与えられず過酷な強制労働に従事させられ、その多くが命を失いました。

またより効率的かつ迅速に多数のユダヤ人を殺害する目的でガス室を作り、多くのユダヤ人が連日ガス室に送られ命を失うこととなります。ドイツの占領下で捕縛されたユダヤ人にとっては、ただユダヤ人というだけで強制連行され強制労働で死ぬかガス室で死ぬかの選択肢しかありません。

彼らの唯一の希望はドイツ軍占領地が早急にアメリカ等の連合軍がドイツ軍を駆逐して開放してくれること。それだけが自らが助かるための唯一の方法と言えます。いかに戦争中とはいえ、このような野蛮な行為が国家主導で行われていたと言う事実には戦慄が走ります。

ヒトラー政権下でのナチス・ドイツのユダヤ人に対する蛮行というのは非常に有名ですが、このようなユダヤ人に対する差別意識や度重なる虐殺というのは、何も第2次大戦時にナチス・ドイツが行ったことが初めてというわけではありません。虐殺が国家主導で組織的に行われた点と虐殺された人数の多さという意味では類をみませんが。

ヨーロッパではユダヤ人は古くから差別され、ことあるごとに虐殺の対象となっています。暴動が起こればユダヤ人は真っ先に狙われ家を燃やされ家財を強奪され、虐殺の憂き目にあっています。有名な十字軍遠征でも十字軍の行く先々で真っ先にユダヤ人は血祭りに上げられ十字軍がエルサレムを陥落し兵士が流れ込んだ後エルサレムはユダヤ人の血で真っ赤に染め上げられています。

これらのユダヤ人に対する虐殺は中世のヨーロッパ全域やロシアでも頻繁に起こっておりユダヤ人に対して差別という言葉では言い表すことの出来ない激しい憎悪が感じられます。

このようなユダヤ人に対する差別意識や憎悪感情というのはどこから来るのかと言うのは管理人の中で若い頃は疑問でしたが、歴史を丁寧に遡ぼり歴史を紐解いていくことで自ずと答えは出てきます。それはイエス・キリストと聖書に見出すことが出来ます。
これらの問題点を探るうえで聖書への理解を深める事は学術的に必要不可欠です。

ここでユダヤ人を引き合いに出したことには理由があり表題である聖書の否定と大きな関わりがあります。むしろユダヤ人の存在無くしては語ることはできませんので、ユダヤ人についても少々言及する必要があります。

なお、管理人はクリスチャンではないので聖書を読んだ一般人が聖書についてどのように感じたか書いているに過ぎません。コメント欄でこの記事の聖書の記述に関して指摘される場合、具体的に聖書の何処にその記述があるのか例えばマルコ1・4ー10のように併記願います。聖書の内容について論争がしたいわけではありませんので、留意願います。



まずキリストとはキリスト教において救世主を指す言葉であり、イエスとは実在した歴史上存在した人物を指します。イエス・キリストというのは人間であるイエスがキリスト、神の子であることを強調する場合に用いられます。ここで少しだけイエスの半生とキリスト教世界におけるイエス・キリストの重要性にについて少々触れたいと思います。恐らくこの説明がないと聖書を読まれたこともなくユダヤ人の歴史について読まれたことのない方には話が繋がらないし理解もできないと思います。

イエスは今からおおよそ2000年前にエルサレム郊外のベツレヘムの街で父ヨセフと母マリアの間に生まれたとされています。されていますというのはヨセフとマリアはそのとき正式に結婚しておらず婚約中の間柄であったものの関係は結んでいなかったにも関わらずマリアは突然懐妊したからです。

ヨセフは義にかなった人物であり彼女を晒し者にすることを望まなかったため密かに離婚することを考えました。すると夢の中で神の使いである天使にこのように告げられます。「ダビデの子ヨセフよ、あなたの妻マリアを迎え入れることを恐れてはならない。彼女の内に宿されているものは精霊によるものである。彼女は男の子を生むであろう。あなたはその子をイエスと呼ばなければならない。彼は自分の民をその罪から救うからである。このすべては預言者を通してヤハウェによって語られたことが成就するために実際に起きたのである。」こう言われてていた。

マタイ1・18-22

これは聖書の一節を抜粋したものですが、天使の言葉が正しければマリアのお腹の中の子は精霊の力により懐妊したもののようです。クリスチャンでもない科学全盛の現代に生きる人間からすれば、何を馬鹿なと思われるかもしれません。聖書にはこのようににわかには信じがたい出来事が散見されクリスチャンでもない管理人から見ても、書いて有ることをそのまま鵜呑みにすることはなかなか難しいです。

このマタイの一節にでてくるヤハウェというのはキリスト教における唯一神を指し聖書はもともとはヘブライ語で書かれ後にキリスト教の布教活動が世界中に広がると同時にそれぞれの言語に翻訳されたものが使用されるようになりました。聖書にあるYahwehにはイントネーションの記述がないことからヤハウェ、日本語だとエホバ等様々な読み方が可能です。ヤハウェと読むのが一般的と思われるため以降ヤハウェと表記します。



イエスが30歳になった頃、ヨルダン川の岸辺に洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が現われました。彼は悔い改めよ、天国は近づ
いたと述べ罪の許しを得させる悔い改めの洗礼をヨルダン川で民衆に授けていました。

バプテスマを施す人ヨハネが荒野に現われて荒野に現われて罪の許しのために悔い改めの象徴としてのバプテスマを述べ伝えた。そのためユダヤの全地とエルサレムの前住人が彼の元に出てきて自分の罪を露わに告白しつつヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

ところでヨハネはラクダの毛をまとい革の帯を腰に巻きいなごと野蜜を食べていた。そして彼はこう述べ伝えるのであった。「私の後にわたしより強い方が来られます。私は屈んでその方のサンダルの締め紐をほどくにも値しません。私はあなた方に水でバプテスマを施しましたが、その方はあなた方に精霊でバプテスマを施すでしょう。

その頃のこと、イエスがガリラヤのナザレから来てヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。そして自ら上がられてすぐ、天が分かれ霊が鳩のようになって自分の上に下ってくるのをご覧になった。

マルコ1・4ー10

これはイエスがヨハネから洗礼を受けた様子を描いた聖書の一節を引用したものです。イエスは30歳になるまでナザレで過ごし父ヨセフの大工の仕事を手伝って過ごしていたようですが、30歳になりヨハネから洗礼を受けた後修行のために荒野に入ります。そこでは断食などの修行を行いますが、悪魔サタンはイエスに対し様々な誘惑を仕掛けてきますが、これを神の言葉を引用して撃退します。この悪魔サタンの誘惑と試練の数々に耐え抜いたイエスはその後ガリラヤに戻り布教活動を始めることとなります。





ガリラヤに戻ったイエスは「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と第一声を発し、布教活動を始めます。当時権勢を振るっていたパリサイ派や祭司たちの律法主義と堕落を批判し、神の愛が身分や貧富の差に関係なく全ての人に及ぶことを説きます。

古い律法は人を救いにいたらせないこと、イエスの教えこそが新しい律法であり、理想郷としての神の国は信じる人の心の中にすでに来ており、今や差し迫った最後の審判においてその到来は完成すると宣言します。

イエスは物と心の平等を掲げ、現状を否定し社会的な弱者や病人、差別された人々をいたわり、数々の奇跡をもって癒やしていきます。この中には重篤な皮膚病を患っているものも少なくなかったようですが、イエスが手をかざすことで途端に皮膚病を癒やすことが出来たようです。これらの民衆の多くがイエスを信じ彼らはイエスを神がつかわした救世主であるとみなしました。

当時のパレスチナは強大な軍事大国であるローマ帝国の占領下に有りユダヤ人の中には救世主が神から使わされユダヤ人を救済してくる。それが実現することが待望されていました。貧困や病気に苦しむ民衆にとっては数々の奇跡を目の前で見せ病をたちまちのうちに癒やしてくれる、彼の説く言葉にはそれだけの重みがあったものと思われます。

ただユダヤ人の民衆の多くが到来を待ち望んでいた救世主はイエスのような平和主義者ではなくモーセの後継者であるヨシュア、のような卓越した軍事的指導者でありその強力なリーダーシップによってかつて栄華を誇ったイスラエル王国を復興してくれる救世主の存在であったため大多数のユダヤ人の民衆からはイエスの活動は支持されなかったようです。


またイエスは後々の宣教活動のため、特に十二人の弟子たちを選抜します。この弟子たちがイエスを中心として広がる弟子集団の中核をなし、後に十二使徒と呼ばれるようになります。

イエスによって選ばれたのはペトロ(シモン)、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルファイの子のヤコブ、タダイ(ヤコブの子ユダ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの12です。この12人の弟子はイエスの死後キリスト教が組織化されていく中で重要な役割を果たすことになります。

イエスのこの布教活動は、当時のユダヤ教の指導者達にとって、既存の秩序の破壊者であり、到底許されるものではありませんでした。特にユダヤ教の派閥の一つであるパリサイ派からは異端とみなされ激しく敵視されます。サドカイ派からは貧困層を結束させ反乱を起こす危険性から危険人物と認識されていました。

このユダヤ教内部の混乱をローマ当局が無視できなくなります。イエスは側近である十二使徒の一人であるイスカリオテのユダに裏切られローマ総督ポンテオ・ピラトに捕縛されます。裁判を経てイエスはローマ帝国皇帝に対する反逆罪として有罪となり後にエルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架上で磔刑に処されることとなります。

このイエス・キリストの死はクリスチャンでもない日本人にとってはなんということのない歴史上の一コマに過ぎませんが、キリスト教社会やユダヤ人にとっては話がまるで違ってきます。このイエスの生誕とパレスチナにおける布教活動、そして当時のユダヤ教指導者との確執、最終的なイエスの死というのは非常に大きな意味を持っており、その後に続くユダヤ人の迫害の歴史の根本的な原因の一つでもあります。


キリスト教世界においてイエス・キリストの磔刑による死というのは非常に重い意味をもっており、聖書の創世記には人類の始祖であるアダムとイブが神から食べてはいけないと禁止されていた知恵の実、禁断の果実を神との約束を破り食べたことから始まっており、この禁断の果実を食べた出来事は重要な意味を持ちます。

このアダムとイブが禁じられていた知恵の実を食べた行為は人間の原罪とされ、この行為により人間は永遠の時を生きる不死の身から寿命が来たら死ぬし病気もする、飢えにも苦しむことになります。ただその対価として人間は様々なものを獲得します。その最たるものが知性であり、様々な感情でもあります。知恵の実を食べる前のアダムとイブがどのような存在だったのかは創世記の記述からある程度推測することが出来ます。


以下の記述は知恵の実を食べる前の蛇(サタン)とイブのやり取りとその後の経緯です。

さて、ヤハウェが造られた野の全ての野獣の内蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言い始めた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならないと神が言われたのは本当ですか」。それに対して女(イブ)は言った。「園の実を私たちは食べてよいのです。でも園の真ん中にある木の実を食べることについて神はあなた方はそれから食べてはならない。いや、それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ」と言われました。

それに対して蛇は女に言った。「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べた日にはあなた方の目が必ず開け、あなた方が必ず神のようになって善悪をしるようになることを神は知っているのです。そこで女を見てその木が食物として良く目に慕わしいものであるのを知った。

たしかにその木は眺めて好ましいものであった。それで彼女はその実を取って食べ始めた。その後、共にいた夫であるアダムにも与え彼もそれを食べ始めた。すると二人の目は開けふたりは自分たちが裸であることに気づくようになります。そのため彼らはいちじくの葉を綴り合せて腰覆いを作った。

創世記3・1-7



この聖書の一節から読み取れるのはアダムとイブが少なくとも蛇であるサタンと最低限のコミュニケーションを図る程度の知性があった点。また普段園に自生している木の実などを空腹を感じたら食べていたと思われますが農業に精を出し生産活動をしていた様子を伺うことは出来ません。それだけ園は豊かな食べ物で満ちていたことが伺えます。

注目すべきは知恵の実を食べた後の二人の様子ですが、それまで幾ら結婚しているとはいえ異性を前にしても互いに裸であることに対して羞恥心を感じることはなかったようですが、知恵の実を食べることにより二人には裸でいることが恥ずかしいと感じ、いちじくの葉で腰覆いを作ったと有ります。

一般論で考えて知性や品性が人並みに備わっていれば裸であることを恥ずかしく感じない人間はいないと思います。異性を前にすれば尚更です。一つの例外があるとしたら無人島に漂流して誰もいない空間で一人で生活していれば話は別ですが。もう一つの例外は幼稚園児程度の年齢なら、あまり羞恥心も感じないのかもしれません。ただ異性を前にすればこのくらいの年齢でも恥ずかしいと感じるような気がしますが・・・

私見を申し上げるなら子供ならいざしらず、成人を過ぎて裸でいることを恥ずかしいと思わない人間は動物と変わりません。羞恥心というのは些細な点ですが人間と動物を隔てる大きな点だと思います。逆に言えば羞恥心のない人間に高い知性や品性が備わっているとは到底考えられません。

知恵の実を食べる前のアダムとイブは農業生産に精を出すこともせず、いえ恐らくするだけの知性がなかったと思われますが、空腹を感じれば自生している木の実等を食べて飢えを満たすだけの存在です。木の実をそのまま食べても飢えを満たすことはできると思いますが、より美味しく食べるなら木の実を焼いたり蒸したり煮てスープにしたりと工夫を凝らそうと考えそうなものですが、そのような記述はありません。

言い換えれば二人にはその程度の知性しか無いことを暗に示しています。恐らくアダムとイブは日がな一日日向ぼっこをしたり動物と戯れたり、幼稚園児並に野山を駆け回ったり川遊びをして遊んで過ごし空腹を覚えたら木の実等を生のまま食べ疲れたら寝るような生活を送っていたと思われます。

この知恵の実を食べた行為というのはキリスト教世界では人間の原罪とされていますが、よくよく考えてみてください。このような幼稚園児程度の知性しかないような存在に対して幾ら食べてはいけないと禁止していたとしても、言いつけを破って食べてしまうことは当然想定の範囲内だと思われます。

側には蛇であるサタンの存在が有りことあるごとに恐らくイブを唆し知恵の実を食べるように促していたはずです。その点も考慮すれば、本当に食べてはいけないのであればそれこそ知恵の実の前に屈強な天使を100人でも配置して24時間監視して二人が知恵の実に手を出しそうになったらその都度、天使が諭してあげることをすれば事足りる話です。

それすらしないということは神は二人が神との言いつけを守るか暗に試していると見るべきですが幼稚園児程度の知性しかない、言い換えれば見た目は大人かもしれませんが中身は子供と変わらないと思われる二人です。言いつけを破り食べてしまう事は時間の問題であったと考えます。このことが人類の原罪と言われても管理人的には意味が分かりません。やってはいけないと言われたら、返ってやりたくなるのが人間だし子供なら尚更です。

いずれにせよこのアダムとイブが知恵の実を食べた出来事により二人はエデンの園から追放され食べるものにも事欠き飢えにも苦しむこととなります。人間の艱難辛苦はこの出来事から始まったとされています。





話は戻りイエス・キリストの磔刑による死はアダムとイブが犯した一つの過ちにより始まった原罪の贖罪であるとキリスト教世界ではみなされています。イエスが磔刑によりその血を流して尊い生贄となることにより、人類が背負った原罪を贖った。神からすれば知恵の実を食べる行為はまさに神に対する反逆そのものです。

その大罪を神の子イエスが自らの痛みと引き換えに磔刑に処されることで贖ったという意味。磔刑による贖罪という概念はキリスト教世界では非常に重要な意味を持っています。神に対する反逆という大罪を犯した人類に対しその救いであるイエスを遣わし人類を見捨てること無く救済してくれる神の寛大さと愛の深さを感じることが信仰心の熱いクリスチャンにはできるようです。

仏の顔も三度までという諺がありますが、ヤハウェはアダムとイブが犯したただ一度の誤りを決して許さず、その行為を人間の原罪であり神への反逆と位置づけエデンの園から二人を追放します。その様子からは管理人には神の人間への愛を感じることは出来ず寛容さも感じることは出来ません。


この一連の聖書の話とイエスの布教活動とユダヤ教指導者であるパリサイ派やサドカイ派との確執、ひいては最終的にイエスが磔刑に処され死んだことにはキリスト教世界においては非常に大きいな意味を持ちますが、ユダヤ人にとってもイエスが磔刑に処され死んだことはその後のユダヤ人の運命を左右する重要な出来事と言えます。

当初イエスの死と同時に収束すると見られていたイエスの神の国運動ですが、その活動は12使徒である弟子たちによって受け継がれていきます。当初は強い迫害を受けていたもののその活動が徐々に実を結びキリスト教ヘと名を変え、後にヨーロッパを中心に世界中に広がっていきます。

その後、キリスト教徒が増えるにつれてどうなったか、ユダヤ人は神が人類を救済するために遣わした救世主であるイエスを見殺しにした張本人であるという烙印を受けることとなりますが、これはキリスト教世界では致命的といえます。

ただユダヤ人が差別され度重なる虐殺を受けたのは、もちろんこれだけが原因では無いと思われますが、その原因の一つにはユダヤ人はユダヤ教の戒律を厳格に守ることで知られますが、多くのユダヤ人はキリスト教が浸透していく中でも頑なに改宗しようとはせず住んでいる地域のコミュニティにも独自の戒律を守ることを重視するあまり、馴染むことが出来ず他の民族から嫌悪され衝突する原因にもなっています。

仮に多くのユダヤ人がユダヤ教の戒律を重視することよりも身の安全を守ることを優先して便宜上キリスト教に改宗していれば、その後の迫害の歴史は少々異なったものになったのかもしれません。




イエスの死後ローマ総督による支配体制が続いていましたがユダヤ人たちの間でも宗教、政治的内紛に加えてユダヤ人とローマ軍との間で緊張も高まり、ユダヤ各地で暴動や軍事衝突などが頻発するようになります。ローマは軍をエルサレムに送り込み鎮圧を図ります。

エルサレムでは時を同じくして過激派による大規模な暴動が勃発し、反ローマの機運がユダヤ社会全土に広がりユダヤ人による反乱が起こります。ローマ軍とユダヤ人との間で血で血を洗う激戦が繰り広げられるものの、最終的にユダヤ人は完敗しこの反乱に激怒したローマはユダヤ人のパレスチナでの存在を許さず追放を命じます。

パレスチナを追われたユダヤ人は世界各地へと離散することとなります。これはディアスポラと呼ばれユダヤ人の長きに渡る苦難と迫害の歴史の始まりとなります。





ここで一度映画リベリオンに話を戻したいと思います。

リベリオンの舞台である都市国家リブリアではテトラグラマトン党の党首ファーザーが君臨し二度と戦争が起こらないように感情を持つことを禁止されています。そのために人々は定期的に感情抑制薬であるプロジアムを投与することを義務付けられています。

またリブリアでは音楽や文学書籍、絵画や映像など、心を揺り動かす感情的なコンテンツは全てEC-10と定義され禁止されています。党の方針に逆らい、薬の服用を拒み「EC-10」を所有している人間は感情違反者として、特殊捜査官クラリックが摘発、処刑されてます。

このリブリアの世界をあらためて考察してみますが、怒り、悲しみ、喜び、感動のような感情は厳しく制限され感情抑制薬であるプロジアムの投与が義務付けられ違反者は容赦なく処刑されています。

管理人は初めて映画リベリオンを見たときには聖書を読んだことがなかったので、この記述をみても特に何も感じませんでしたが、聖書を多少なりとも読んだ後ですと異なる感想を持ちました。それはエデンの園におけるアダムとイブの様子とリブリアにおける市民の暮らしぶりが似ているという点です。

エデンの園における知恵の実を食べる前のアダムとイブは感情抑制薬を投与されているわけではないものの、少なくとも羞恥心がなかったことは明らかです。恐らく怒り、悲しみ、喜びといった感情もまったくなかったかは聖書の創世記のくだりから読み取ることは難しいものの、恐らく、激情にかられて二人が言い争いをしたり喧嘩をしたり、時には何か嬉しいことが二人の間に起こったとしても感情を大きく表面に出すことはないし、できなかったと思われます。知恵の実を食べる前の二人は感情が極端に制限されていると読み取ることも可能です。


人間は空腹を覚えれば食事をしなければ飢えを満たすことは出来ず、食事をしなければやがて死に至ります。食べ物を食すという行為は生命活動を維持するために非常に重要な行為です。ですが人は空腹が満たされればそれで幸せかと問われればそれは違うというしか無いです。

作中プレストン一家の食事風景の場面が有りますが、コーンフレークのようなものを食べている様子が伺えます。普段からこのような味気ない食事を取り続けていると思われるため妹は嫌気が差しコーンフレークにスプーンを刺し遊んでいる様子を兄に行儀が悪いと注意されます。

食事というのはその根源には空腹を満たし生命活動を維持するために行うものですが、やはり毎日のことです。より美味しく食べるために煮たり、焼いたり炒めたり、蒸したりと調理に工夫をこらし調味料により味付けを変えることで同じ食材を使用しても味にバリエーションを加えることは重要だと思います。

猫を飼ったことがある方はわかると思いますが同じ味の猫缶を与え続けると3日めには飽きてそっぽを向き手を付けなくなります。さすがに死ぬほど空腹を覚えれば食べますが、猫ですら味の変わらぬ同じ食事を食べ続けることは苦痛なのです。人間であれば尚更です。

エデンの園で知恵の実を食べる前の二人は自生する木の実等を食べていたようですが、調理をしていたことを読み取ることは出来ません。恐らく生で食べていたと思われますが、感情を持つ存在であれば生のままでも食べられなくはないけど焼いたり蒸したりと調理をして煮てスープにすればもっと美味しくなるかもと思うと思われます。

スープにするなら他の食材も入れてみよう。味がそっけない。調味料を入れてみようという発想に必然的になると思われますが、そうしてはいないと思われます。そもそもの話ですが、エデンの園の二人には木の実を生のまま食べても美味しいとか不味いとか感じることもなかったと思われます。食べて空腹が満たされればそれよく、味については二の次です。この二人の食事の風景をイメージするとリブリアのプレストン家族の食事の光景と大差ないと申しますか、加工品を食べているだけプレストン一家のほうが遥かにマシです。


リブリアの世界で禁止されているEC-10に定義されている音楽や文学書籍、絵画等ですが美しい物を見たり聞いたり、読むことで、感動を覚える行為というのは人間が動物と異なる大きな点だと思います。犬や猫も飼い主と遊んだり散歩に行ったりすることは嬉しいと感じるし稀に猫であれば飼い主が猫缶ではなく新鮮な鮪の刺身でも与えれば大喜びとなり、嫌なことがあれば悲しいと感じることもあるでしょう。ですがクラッシック音楽を聞いて心を揺さぶられるような感動や興奮を覚えることは恐らく無いと思われます。

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リベリオンの作中ではプレストンは反乱者の鎮圧後、収集されていた品々や音楽に触れることとなりますが、このときはプロジアムの投与を辞めており感情を持っています。たまたま蓄音機に掛かっていたレコードを聞くためにスイッチを入れ流れてきたベートーヴェンの交響曲第9番を聞いた瞬間、プレストンの心のなかで様々な感情が激しく交錯し感動に打ち震え持っていたガラス玉を落とすシーンが描かれています。

なんのことはありません。美しい音楽を聞くことで感動を覚えることは人間として当然の感情です。ベートーヴェンの美しい調を聞き何らかの感情の変化が心のなかで芽生えることがない人間は恐らくこの世の中には存在しないと思います。仮にいるとしたらその人間は心が死んでいます。


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最初の反乱者の鎮圧時には押収された絵画の中にモナリザが出てきます。この段階ではプレストンはプロジアムを投与しており感情はありません。鑑定の結果本物であると認定されるやいなや、プレストンは感情を表面に出すこと無く迷いなく焼き払うように命じます。その後現れたパートリッジが見たのは無残にも焼き払われたモナリザを含む絵画の山ですが、このときのパートリッジのなんともいえない悲しい表情が印象に残ります。


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プレストンの最初の同僚であるパートリッジがプロジアムを投与せず禁止されている押収品である詩集を隠し持ち廃墟で読んでいるところをプレストンに見つかり射殺される場面では、イエーツ詩集を読んでいるシーンが描かれており、パートリッジは次の詩をプレストンに読んで聞かせます。

「しかし貧しい私は夢を見るしかなかった。夢をあなたの足の下に、そっと踏んで欲しい。私の大切な夢だから。」

短い文章ですが心に響く美しい詩です。この時のプレストンはパートリッジの読み聞かせた詩にも何の感情の変化も示しません。


これらリブリアの世界で禁止されているEC-10に定義されている音楽や文学書籍、絵画ですが、人間を人間たらしめるためにはこのような美術品に時折触れ感動を覚えることは不可欠な行為だと思われます。なくても生きることはもちろん出来ますが、このリブリアの世界のように戦争はないけど一切の美術品の所有を禁止され見ることも聞くことも出来ない世界は一言で言えば無機質そのものです。

もちろんプロジアムを投与され感情が極端に制限されたリブリアの市民にはこれらの美術品を見ても心を揺さぶられることはなく、これらの美術品が焼かれても壊されても、それに対して悲しいという気持ちが芽生えることもありません。

このような美術品を所有することはおろか鑑賞することも許されず一切の喜びも楽しみもない。娯楽を楽しむことすら禁じられている。食事も腹に貯まればそれでよく味気なく無味乾燥、家にいても家族同士でプロジアムを適切に投与しているか、感情をもっていないか互いに監視し合う社会です。心の休まる場所はどこにもありません。このような世界に生きて何が楽しいというのでしょうか。戦争がなければそれ以外のことをすべて犠牲にしてもそれで満足ですか?

怒り、喜び、悲しみなど大きな感情のうねりというのは人間を人間たらしめる要素の一つですが、たしかに激しい怒りは個人同士であれば喧嘩となり、時としてそれは殺人に発展します。それが国家同士であれば戦争に発展し戦争になれば多くの兵士の命が損なわれる他、罪のない一般市民が巻き込まれ多数の死傷者がでます。第一次世界大戦では人類史上まれに見る戦争の規模となり大戦を通しての死亡数は実に1600万を超えるなど多大な犠牲を人類は払ってきました。

もちろん戦争は無いに越したことはないですし平和が一番です。それについて異論はありません。ですが人間の持つ大きな感情のうねりというのは時として偉大な芸術家の手を借りこの世の中にかけがえのない芸術品の数々を生み出してきました。それらは人類にとって大切な資産であり叡智の塊でもあります。これらを見ることも聞くこともできず、あまつさえ焼き払うなど人類に対する冒涜というしかありません。

感情というのは悪い方向に傾けば争いのもととなり時に殺人に発展し、戦争の引き金にもなりえます。ですが良い方向に傾けばそれは社会をより良くするために科学、医療、建築、土木など様々ですが多種多様な分野で飛躍的な発展を遂げることが出来、人類のさらなる発展に繋がります。芸術はその最たる例だと思いますが、まさに人間の持つ感情というのは諸刃の剣といって良いです。逆に言えば感情のない人間からは良くも悪くも何も生み出すことは出来ません。

戦争は起こらないに越したことはないけど、人間が人間らしく生きるためには仮に戦争のある世界であってもそれ以上に重要な要素がある。そのためには人間の持つ感情が非常に重要な意味をもっていることをこの映画から読み取ることが出来ます。物事には何事にも優先順位が有り戦争の無い社会であることは望ましいことだけどそれは優先順位の第一位ではない。

戦争の無い社会の代償として、リベリアの世界は非常に無機質で娯楽もなく芸術を鑑賞する喜びもありません。言葉は悪いですが、ただ飯を食いクソをして寝るだけの生活です。戦争がないからと言ってそんな社会で生きて何が楽しいのでしょうか。このような世界で一生を終えるなどまさに生き地獄です。





長くなったので一旦記事を切ります。映画リベリオンに見る聖書の否定②に続きます。



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