朝鮮通信使と鶏

さて、李氏朝鮮時代の朝鮮通信使の心温まる日本人と朝鮮人の交流のお話として有名な、
朝鮮通信使と鶏というお話があるのでご紹介したいと思います。

江戸時代の朝鮮通信使

wikiより
江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、
日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。
室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、
室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。
そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、
朝鮮と国交を結ぶ必要があった。
主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、
朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。
国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、
対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、
密告した柳川は津軽へ流罪とされた。
一方朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行った行為や李朝の対応に対する批判が高まると同時に、
日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を求める気風が強くなっていった。
また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、
日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を何とか結びたいと考えていた。
こうした中、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣された。

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以下、転載

1枚目の絵は船着場から上陸して町の中をうろついていた朝鮮通信使一行が、町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩になっている様子を描いたものだそうです。
1748年(延享5)に来日した朝鮮通信使が淀藩領に入った際、
接待役を務めたのは家老の渡辺善右衛門という人だそうで、
善右衛門は「来聘記」を書き残しました。
それには付図(来朝行列図)があり、この図の一部分がこの絵と思われます。

このころ、淀藩城下では、猫は朝鮮通信使の大好物で、町中の猫を彼らがつかまえて料理して食べているので、
町から猫がいなくなった』という噂もたっていました。
また、江戸時代、祭りの仮装行列で演じられた朝鮮通信使行列には、「お約束」の唐人がつきものでした。
その唐人は、「賄い唐人」と呼ばれていました。日本人が創造した架空の朝鮮通信使です。
朝鮮通信使のうち、身分の高い人たちには、幕府からご馳走のもてなしがありましたが、下級身分の人たちは、
米・味噌・卵などが支給されて、宿泊先の厨房で自炊していました。
彼らは、支給されたもののうち、いらないものを売って好きなものを買ったり、
上役の命令により密かに持ち込んだ朝鮮国の人参を日本の商人に売って金を得たりしました。
このような行為から日本の庶民の間に架空の朝鮮通信使「賄い唐人」のイメージが生まれました。

賄い唐人は、朝鮮国の人参を売るために使う天秤ばかりと売買を記載する帳簿を持ち、
鞍には、仕入れた兎や鶏が入った籠をつけています。
日本各地の祭礼で行われた仮装行列で、朝鮮通信使仮装行列の賄い唐人は、
道化役として、見物客を楽しませていました。

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賄い唐人は、日本の庶民が持っていた韓半島人に対するイメージを表現しているのです。
密かに朝鮮国の人参を売り、腹が減ると生肉を意地汚く食べ散らかす。
このような肉食の野蛮で滑稽な「賄い唐人」は、江戸時代の日本人が抱いていた半島人のイメージのひとつなのです。
実際に、本物の朝鮮通信使が通過した町で、猫は朝鮮通信使の大好物で、
町中の猫を彼らがつかまえて料理して食べているので、町から猫がいなくなった』という噂がたったこともあります。

日本側は朝鮮通信使に莫大な費用を使って手厚い待遇を与えていました。
上級の身分の者には高級料理を出し、下級の身分の者には米、味噌、卵、魚、野菜などを支給しました。
それは、充分な量だったと思います。
しかし、肉の供給量は少なかったと思われます。日本人にとって肉食は一般的ではなかったのに加えて、
朝鮮通信使の宿舎が寺であることが多かったからです。
朝鮮の寺では肉食するのでしょうか?日本の寺では肉食は禁じられていました。
僧侶は、朝鮮通信使が寺で肉食するのを嫌がっていました。当然、肉の供給量は少なかったはずです。
朝鮮通信使は肉に飢えていたことでしょう。
それでは、なぜ、朝鮮通信使は金を払わずに、鶏を盗んだのでしょうか。
それは、朝鮮では貴族が平民から物を奪うことが一般的だったからです。

江戸時代、大名たちは、家の格を守るために幕府に忠誠を尽くす必要がありました。
戦争があれば武功で忠義を示すことができます。しかし、江戸時代は戦争がない時代です。
大名は、幕府に命じられた仕事を熱心にやり遂げることによってしか忠義を示すことができなくなっていました。

幕府は、朝鮮通信使の接待を大名たちに命じました。大名たちは、幕府のために熱心に朝鮮通信使を接待しました。
また、大名同士の見栄の張り合いから、幕府の想定を遥かに超えた、過剰な接待をしてしまいました。
つまり、朝鮮通信使への「手厚い待遇」は、朝鮮通信使への敬意や大事に思う気持ちからではなく、
大名の幕府への忠誠心と大名同士の牽制から行われたのです。
このような大名と幕府の事情は、朝鮮通信使たちは知りません。
彼らは、自分たちが偉いから日本人が手厚く接待してくれると誤解したのです。
幕府は、朝鮮通信使を「朝貢使」として、大名や民衆に見せることで、幕府の権威付けに利用したのです。
朝鮮との外交の詳細は、幕府と対馬藩の上級職の者しか知りませんでしたから、大名も含めて、日本人のほぼ全員が、朝鮮通信使を朝貢使として認識していました。

通信使の随員の中には、そのような扱いに慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、
野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという。
朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、
憤りを感じていた日本人が多かったことも、また歴史的事実なのです。

日本の庶民が、朝鮮通信使は猫が大好物であると、彼らを笑い者にするような噂をしても、当然でしょう。
布団のように嵩張るものさえ盗むのですから、持ち運びやすいものなどは、すかさず盗んだことでしょう。
まさしく朝鮮通信使は国家使節の皮を被った窃盗団だったのです。

さて、ここからが本題です。

1764年4月6日。
この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛失しました。
通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、
日本人は、盗みの仕方が上手だというような悪口を言いました。
これに対応した鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も無く、
日本人が盗ったと言われたのは日本の恥辱になると感じ、また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、
彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返しました。
そうです。朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。
当然、接待役の武士は、このような朝鮮通信使の盗癖を知っていたでしょう。
武士たちは、国を代表する使節が宴会で出された料理の皿を盗むのを見て、驚き呆れてしまったことでしょう。
こんな幼稚な人々に下手に関わるよりも、さっさと他領へ送り出せばそれでよいと考えたとしても無理ありません。
あるいは、朝鮮は清の属国であることから、韓半島人を低く見て、可哀想だからと大目に見たのかもしれません。
しかし、このような態度は結果として、朝鮮通信使を益々増長させることになったのです。物を盗むことは犯罪であると教えてあげたほうが、朝鮮通信使のためにも良かったと思います。

鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう頭に血が上り、
人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ちました。
鈴木伝蔵は、下級の武士とはいえ武士です。このままでは、武士として生きていくことができません。
思いつめた鈴木伝蔵は、仕方なく崔を殺すことを決心します。
その夜、鈴木伝蔵は、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。

対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらしました。
また、日本との貿易で大量の銀を得ていた朝鮮は、日本と貿易をしなければ、清との朝貢や私貿易で使う銀に不足し、
ますます貧乏国になっていったでしょう。
一方、対馬藩を考慮外にすれば、日本は、朝鮮と外交関係を持っていることに何の利益もありませんでした。
日本と清とは国交が無くても、貿易関係があり、長崎の唐人屋敷や、その周辺に中国人が滞在していました。
黄檗宗の僧侶を始め、絵師、学者などの文化人も来日していました。中国文化は、朝鮮経由でなくても、直接、
恒常的に入ってきていたのです。

幕府権力が確立し、朝鮮通信使を朝貢使に仕立てることで対外的な力関係を他の大名に見せつける必要がなくなれば、朝鮮通信使は無価値になりますから、朝鮮との外交を止めても良かったのです。
それは、朝鮮通信使の来歴をみれば分かります。江戸時代265年間に、朝鮮通信使の派遣は12回でした。
そのうち半数の6回が1655年までの江戸時代初期の50年間に行われ、最後の1811年は江戸には来ず対馬止まりの来日でした。
1636年、第4回の朝鮮通信使が来日した頃には幕府権力が安定し、朝貢使の役をさせる朝鮮通信使の価値は低下し始め、先例として惰性で続けられたものの、1764年をもって朝鮮通信使は完全に無価値になり、その使命を終えました。
日本は、貿易によって対馬藩と貧乏な朝鮮を救うために、朝鮮と外交をしていたに過ぎないのです。
要するに、朝鮮通信使は、外交的に全く意味の無い国からやって来た、妙な音楽を演奏する窃盗団でした。

転載おわり

さて、この朝鮮通信使と鶏の話というのは実に朝鮮人らしいエピソードだと思います。
外交使節団といえばその国のエリートだと思いますので、そのエリートレベルですらこの体たらくです。
かの国の民度と知性の低さを物語っており、現代朝鮮人の下劣さを垣間見る事ができ、
当時から下劣な民族だったのだと、改めて痛感することができます。
お隣の国や、在日朝鮮人の方からは朝鮮通信使を以下のように捉えているようです。

・朝鮮通信使は江戸時代における日韓友好の証である。
・朝鮮通信使は、朝鮮の先進文化を日本に教えてあげた。
・日本人は、朝鮮から来た人々を尊敬の念を持って熱狂的に歓迎した。

記事の内容を読む限りにおいて、当時の江戸時代の民衆が朝鮮通信使の朝鮮人に対して抱いていた感情を、
垣間見る事ができると思いますが、一言でいうとその反対だったようですね。
日本と朝鮮との友好の証ではなく、徳川幕府の支配体制の確立のために政治的に利用していただけである。
庶民は実質的に朝貢使節団とみなしていた。
朝鮮の先進文化を日本に教えてあげた。

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李氏朝鮮時代の土人国家から学ぶ事も得るものなど何一つとしてありません。
日本人は、朝鮮から来た人々を尊敬の念を持って熱狂的に歓迎したというのも残念ながら逆のようですね。
鶏は盗む、猫は食う、食器は盗むし布団を盗む。
猫は食うというのは庶民の憶測というか、まあ奴らならやりかねないと見られていたんでしょうね。
こんな行為をする使節団に対して尊敬の念を持つ民族は何処にもありません。
江戸時代の民衆からも嘲りと嘲笑、好奇の視線に晒されていた事でしょう。
このようなエピソードというのはどれか一つとってもその民族の性質をしめす格好の材料といえますが、
まさにこの朝鮮通信使と鶏の話というのは、彼ら李氏朝鮮時代の朝鮮人、
おそらく現代朝鮮人にも民族的な性質というのは酷似しており、かの民族の下劣さを表している良い材料といえそうです。
かの国には、どうやら対等の人間関係という概念自体が存在していないようで、そのものより上か?下か?ということでしか、関係を維持することができない模様。
なんか、それだけ聞いていると犬みたいですね。
犬も主従関係がはっきりしているといいますけど、人間の主人のほうが格下だと認識すると自分がリーダーと認識する傾向があるようですので、朝鮮人に対して求められる友好関係というのも、
彼らに対し対等な関係で友好を結ぶという事は難しいようです。
当時の江戸時代の民衆が朝鮮通信使に対して行っていたように、鶏を盗むといった不法行為を行った場合には、
棒で殴りつけて、それは悪い行為である事を体で分からせるしかないようです。
口でいっても恐らく理解できる民度と知性を持ち合わせていないようですしね。
このお話というのは現代朝鮮人との付き合い方について少なからず助けになると思いますので、
現在に生きる日本人としても参考になるところも少なくないのではないでしょうか?
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